ENVIRONMENTALCOLUMN 環境情報を知りたい方/環境コラム

地域文化を育む身近な自然 名古屋を流れる香流川を歩く

取材・文 新美 貴資
  • 自然

名古屋市の北東部を流れる香流川(かなれがわ)。地元の住民以外には、あまり知られていない川かもしれない。名古屋のなかでも比較的自然に恵まれたこの地域において、香流川は緑地やため池とともに、市民の貴重な憩いの場となっている。このあたりの流域は、高度経済成長期に宅地開発が急速に進み、大きく変貌した。それでも川は流れを止めることなく、現代のなかで生きている。香流川の河口から上流までをさかのぼり、昔と今とこれからについて想像をめぐらせてみた。

消えずに残ったふるさとの川

尾張地方の東側を流れる香流川。全長約14キロメートルの小さな河川である。長久手市に広がる丘陵の三ケ峯(さがみね)を源流に持ち、名古屋市の名東区から千種区を流れる。河口で矢田川と合流し、そこからさらに庄内川とつながり伊勢湾に注ぐ、庄内川水系の川である。

香流川という名前の語源には、諸説がある。小林元著の『香流川物語』(1977年)に「涸流川」(『岩作里誌』)や「金連川」(『張州府志』)の記述があり、原字である可能性があるという。「涸流川」の「涸」は「かれる」という意味で、『岩作里誌』には、「深淵に非ずして半流或は全く涸渇する時もあり」(旧字体は新字体に改めた)と書かれてあった。また、『香流川物語』によると「金連」は「鉱山とか製鉄に関係がある地名を連想」するようで、香流川から近い名東区の「山の手」に「化車業(かしゃご)」という小字があり、鍛冶屋に関係のある地名であると説明している。さらに、名東区の川沿いには「香流」という地名があり、川の名前の由来と何か関係があるかもしれないと指摘している。

名古屋を流れる下流域は、昭和の高度経済成長期に一変する。『平成17年度 市民研究報告書 私たちの住む街なかの「魅力資産」の再発見とユニーク活用アイデア(千種区・名東区)』(財団法人名古屋都市センター発行)に、その様子が記されている。同書によると、1964年から大規模区画整理が本格化し、「あっという間に名古屋市のベッドタウンとして、急速に開発が進み河川も治水優先の堤防補強がされていった」。そして、他所から移ってきた住民が多くを占めるようになり、「ふるさとの川としての『香流川』は、住民にとってはるかに遠い川となった」という。それでも「自然に恵まれた名東区の良さが残されて、徹底した都市化されず暗渠化された流域は無かった」と書かれてある。香流川は、この地域で消えずに残った、自然と人の歴史を伝える数少ない遺産の一つだといえる。

川沿いの緑道に設けられているベンチ(名古屋市名東区)
住宅が密集するなかを流れる(同)
香流川の支流・鴨田川(長久手市)。昔はあたりに田んぼが広がっていた
新藤森橋のたもとに建つ「少女とキツネ」の像(名東区)

1960年頃まではウナギも棲んでいた

現代の香流川には、どんな生き物がいるのだろう。少し古いが、2005年に発行された『愛・地球博会場周辺水辺ガイドマップ』(名古屋市水辺研究会執筆・編集、愛知県環境部発行)に、指標生物を中心に調査で確認された生物が掲載されている。それによると、魚類10種(カワヨシノボリ、オイカワ、スジシマドジョウなど)、水生昆虫6種(ハグロトンボ、シマアメンボなど)、爬虫類2種(イシガメ、ミシシッピアカミミガメ)、両生類2種(トノサマガエル、ウシガエル)、甲殻類4種(スジエビ、アメリカザリガニなど)、貝類3種(カワニナ、タニシなど)、その他1種(ヒル)が記載されている。また、『香流川のほたる Vol.2』(1991年、香流川のホタルを守る会発行)に香流川の魚についての記述があり、30年程前には21種の魚が見られたが、現在(発刊当時)は15種が採集できると報告されている。同書を読むと、淡水の生態系で最上位の捕食者である二ホンウナギも、60年頃には定着し生息していたことがわかる。

香流川の環境について特徴的な所としてあげておきたいのが、名古屋市内の下流域にかかる「香月人道橋(こうげつじんどうきょう)」から「香流橋」までのあたり。ここでは、多自然な川づくりを試みた工夫が見られる。川岸は、鉄線で編んだかごの中に石を詰めた構造物が敷設されていたり砂礫になっていたりしており、平時に水が流れる低水路より一段高い高水敷(こうすいじき)には草が茂っている。流速や水深、流路にも変化がつくられ、自然に近い環境を創出しようとする意志が伝わってくる。このような所であれば生き物も隠れ場を確保しやすく、餌も見つけやすいのではないか。

中・下流でよく見られるカモ類
変化に富んだ川の様子が観察できる名古屋市内の下流(名古屋市名東区)
かごの中に石を詰めた構造物が岸辺に敷設されている(同)
ガサガサをして捕まえたドジョウの仲間

都市から田園、荒野へと変わる風景

河川の上・中・下流について、明確に区分する定義は存在しないようだが、ここでは香流川が流れるうちの名古屋市内を下流、長久手市の西端から東方の東部丘陵線「リニモ」の「公園西駅」のところまでを中流、そこから同市南東端の源流までを上流とした。河口から源流までのあたりをさかのぼり、目にした様子を一部紹介したい。

住宅がびっしりと建ち並ぶ下流域は、車や人の通りが多い。交通量が多い香流橋のたもとには、安永9年(1780年)と平成10年(1998年)の銘をもつ新旧2体の馬頭観音が安置され、人びとの往来を見守っている。千種区から名東区へ移り、右岸の神月町を北へ50メートルほど行った所に「月心寺」という古刹がある。ずっと昔、川はこのすぐ前を流れていたという。そして、何度もこのあたりで洪水が起き、住民を苦しめた。昭和になってから流路が改修され、今のような真っすぐな流れになる。月心寺の近くには、明治創業の「高木酒店」の建物が残っている。ここで昭和の初期まで「香泉」「香流川」などの酒を造っていたようで、醸造には川の水が使われていたという。

中流域は、都市から田園へと風景が大きく変わる。長久手の西端から中央部の岩作橋(やざこはし)のあたりまでは宅地で、下流域と様子はほとんど変わらない。そこから川筋は蛇行し、「前熊(まえぐま)」にある農産物直売所市「ござらっせ」の近くまで来ると、のどかな田園が広がり、かつての眺めが色濃く残っているように思われる。さらに東へ進むと、江戸時代初期の石造鳥居が建つ「多度神社」がある。前掲の『香流川物語』によると、水の神様を湧き水の近くで祭ったのがその最初であったという。雑木林の丘陵に囲まれたこのあたりは、確かに湧水が多いようだ。近くの民家の庭には、最初に飲水や食べ物の洗浄、次に食器などの汚れを落とすのに利用する「水舟」に似たようなものがあり、水がこんこんと流れていた。

上流域まで来ると、川の水量はだいぶ少なく、生き物の姿はほとんどない。公園西駅から「モリコロパーク(愛・地球博記念公園)」の西口までは、川に沿って遊歩道が整備されている。そこから先は、三ケ峰に向かってゆるやかな上り坂となり、途中に砂防公園がある。このあたりは、大雨の時に大量の土砂が流出し、下流部が洪水の危険にさらされることから、土砂を溜める「砂溜工」が設けられている。駅から30分くらい歩くと、あたりは重機や建材の置かれた建設会社の敷地や荒野になる。川筋に見えるわずかな水の流れをたどっていくと、コンクリートの排水口に行きついた。水の流れは枯れていて、そこから先は地中へと消えている。ここが、目視で確認できる香流川本流のもっとも上流であった。

香流橋のたもとにあり住民の信仰を集める馬頭観音(名古屋市千種区)
田園が広がる中流(長久手市)
源流域のあたりから公園西駅の方を眺める(同)
目視で水の流れが確認できた最上流の地点(同)

どんな川にも物語がある

香流川について、ここで書くことのできたことは、ほんのわずかである。まだ十分に調べることのできていないこともたくさんある。低い丘陵地にあって大きな川がないこの流域において、香流川の存在は昔からとても大きかった。田畑を潤すだけでなく、人の暮らしとも密接に結びついていた。洪水や干ばつ、農民による雨ごいの祈り、川の名前や地名の由来、いくつもある支流や名もなき忘れられた小さな川、ため池とのつながりや水をめぐる共同管理、ウナギなどの魚貝を捕り食べていた魚食習慣、ホタルを守る住民運動など、過去をさかのぼると香流川も「里川」であったことがよくわかる。

歴史、人、自然、文化、暮らし・・・。みなさんの住んでいる近くを流れる川にも、きっとたくさんの物語がある。歩いて調べてみればいろんな発見があり、地元のことをより深く知ることができだろう。地元の川について親しみ、遊びながら理解を深めることが、川と共生できる確かな関係の構築につながるのかもしれない。昔も今も、そしてこれからも、川は私たちにとり身近にある大切な自然なのである。