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名古屋にもあった豊かな海と漁師町~今も残る漁村文化を探して下之一色を歩く~

名古屋はどんなところかと聞かれたら、どのような答えを思い浮かべるだろう。ものづくりの盛んな工業都市をイメージする人はきっと多いのではないか。自動車、鉄鋼、電機などの製造にかかわるたくさんの企業が、名古屋市内に本社や工場を構える。市の中心をなす名古屋駅の周辺は、再開発がどんどん進んで高層ビルが建ちならび、市域を埋める宅地はさらに周辺へと広がりをみせる。埋立地に工場や倉庫が続く海側には、まわりの市村にまたがる名古屋港があり、国内最大級の貿易港として世界と交易しつながっている。そんな都市化が加速し発展の著しい名古屋にも、かつて漁師町があった。下之一色(しものいっしき、現中川区下之一色町)。ここに伊勢湾でも有数の規模を誇った漁村があり、地先には豊かな海が広がっていた。伊勢湾台風後にその姿を失うまで、名古屋の人びとの食を支えたのである。漁業の歴史が終わり、漁師町としての営みが消えて半世紀以上がたつ今の下之一色を歩いて、昔の名残を探してみた。

掲載日
2018-05-25
取材・文
新美 貴資
伊勢湾でも有数の規模の漁村があった

下之一色でいつから漁業が行われるようになったのかは、わかっていない。「名古屋の漁師町 下之一色」(名古屋市博物館、平成16年)には、「寛文村々覚書」(寛文13年=1673年)の記述から「17世紀後半には漁師町として成立していたことは確かである」と書かれている。その約150年後には、漁師町としての基盤が整い、カキやハマグリが特産品として藩主に献上されていたという。明治36年(1903年)には、漁業組合が組織され、昭和20年代に入ると1200人以上の漁師と400隻を超す漁船を抱える、伊勢湾でもひときわ大きな漁師町として栄えた。

下之一色の漁師だった犬飼一夫さん(87歳)は「魚を捕まえて一色に持っていけば、とりあえず買ってくれた。魚の商いをしている人も多かった」とこの当時を振り返る。町には、漁業者が獲った魚を売買する市場があり、仕入れた魚介の販売や運送、かまぼこや佃煮をつくる水産加工のほか、船大工や鍛冶、漁網をつくるといったさまざまな職や商いが成り立ち、多くの人びとが働き暮らした。犬飼さんによると、水揚げされた魚は、遠くは岐阜県のほうまで運ばれていたという。

名古屋の海でどのような魚が獲れていたのか。「愛知之水産」(大正11年=1922年)によると、この当時の優良漁業組合として、下之一色が最初に紹介されており、主要漁獲物としてカマス、ボラ、ウナギ、エビ、ハゼ、シラウオ、イワシ、サッパ、コノシロ、クロダイ、カレイ、ハマグリ、カキ、シジミなどが記されている。漁具別漁獲統計には、海底に沈めた網を引く打瀬(うたせ)網、海中に網を流し回遊するエビを獲るエビ流し網、船団を組み大きな網で魚群をまく揚繰(あぐり)網、長い幹縄にたくさんの枝縄をつけ、その先に餌をかけた釣り針を結んで魚を獲る延縄(はえなわ)、爪のついたカゴで海底をさらい貝を獲る、船を用いた貝捲(かいま)きや人力による地掻(じが)きなどが書かれており、さまざまな漁具を使い大人数から少人数で行う20種以上の漁法によって、多くの魚介類が獲られていたことがわかる。またノリやカキの養殖も盛んだった。

戦後になると工場や生活排水による水質の悪化によって、漁獲高は徐々に減少していく。そして東海地方をおそった昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の後、高潮防波堤の建設によって下之一色の漁民は漁業権を放棄する。漁場を失ったことから漁業協同組合は昭和39年に解散し、長く続いた漁業の歴史が終わった。

豊かな漁場でたくさんの生き物が育つ

名古屋が面する伊勢湾奥には、市内を流れる庄内川、天白川、日光川などのほか、市外の西には木曽、長良、揖斐川の木曽三川があり、多くの河川が流れこむ。かつて遠浅に広がっていた名古屋の海は、海水と淡水がまざる汽水域が多くあり、たくさんの生き物が育つのに好適な環境だった。「下之一色地区民俗調査報告」(名古屋市総務局、平成10年)によると、昭和30年代まで、市内には下之一色のほか笠寺、熱田、港、南陽の4つの漁協があり、豊かな漁場に恵まれていたことがわかる。

東を庄内川、西を新川に挟まれた下之一色は、南に下るほど狭くなる逆三角形の形をした州(す)の上にある。町のなかを歩いてみた。北西に位置する「権野(ごんの)」から、庄内川と新川がぶつかる南のほうに向かう。権野のバス停を降りてしばらく歩くと特別養護老人ホーム「共愛の里」がある。許可をもらい中庭へ入ると青峯堂があった。堂の前に立つ石柱には「一色漁業組合」と刻まれている。三重県鳥羽市に、多くの漁師の信仰を集める青峯山があり、下之一色とも縁があったとの記述が同調査報告にある。元は新川の堤防の上にあったというこの堂。漁業が行われていた頃は、安全と大漁を願う漁師たちが厚い信仰を寄せたのであろう。

西から東へと進み、町の中心をなす下之一色商店街の本町通りに出る。国道に面した通りの玄関口には、ぽつんと残されたように地蔵堂がある。そのすぐ近くになごや農業協同組合下之一色支店があり、建物の横には農業と漁業の発展に功績のあった、明治の頃の地主である森治郎の石像が静かに座っている。

あちこちに残る漁師町の面影

町の中心から南へと続く商店街は、多くの店がシャッターを降ろし、人気は少ないが、まんじゅう、野菜、花き、茶などを売る店が開き、買い物客の姿も見える。通りをまっすぐ進むと南口に出て、目の前を新川が流れる。そこから川に沿って海のほうへと下り、しばらく歩くと漁港跡が現われる。周辺には製氷や冷蔵などの水産施設と思われる、コンクリート造りの老朽化した建屋が連なっている。ここにたどり着く途中には、今も稼働しているのかわからない、わずかな数の船が川岸にとまっていた。漁港跡には、今も魚市場があり営業している。昼間なので人の姿はないが、漁師町の気風をもっとも現在に伝え、残しているところだろう。

さらに川下へと歩いて町の南端を目指す。新川と庄内川が両方から視界に入り、どんどん接近する。このあたりで、それぞれの川をまたぐ大きな明徳橋と日の出橋がかかり、そこから先は通行止めとなっていた。フェンスに張られていた看板によると、ここから先の州はラムサール条約の登録地で、渡り鳥などの保護地とされているようだ。港区に残る藤前干潟は、この地点からさらに海に向かった、2つの川とさらに日光川が合流する河口のあたりに広がる。

民家が密集し、狭い路地が迷路のように入り組んだ漁師町特有の集落、いくつもある寺社や地蔵堂、漁港跡のすぐ近くにあり今も営業を続けている銭湯「新元湯」など、漁師町があった当時の面影は、あちこちに残っている。地域の魅力づくりのため、区役所が「中川まちなか博物館」と名付けて設置した銘板が下之一色にもあり、商店街の中心と松蔭遊園地のあった場所(現松蔭公園のあたり)で見ることができる。半日あればゆっくり町のなかをめぐることができるので、歩いてみてほしい。

語り部として昔の営みを伝え続ける

犬飼さんは昭和6年、下之一色で漁を営む家の長男として生まれた。10歳くらいのときから親を手伝い船に乗る。揚繰網、エビ流し網、ノリ養殖などを「見よう見まねで覚えた」。戦時中は「人手がないからやらないといけなかった」と話し、学徒動員で市内の軍需工場に通い、学校が休みのときには漁へ出たという。

いろんな種類の魚介類がたくさん揚がった下之一色だが、なかでも犬飼さんにとって特別な魚だったのがボラである。たくさん獲れ、食べ慣れた親しみのある魚で、その料理はご馳走だった。大きいものは脂がのっていて、より好まれた。結婚式でも葬式でも、大勢が集まって酒を飲み交わすときには、ボラの料理が出た。刺身や煮物も食べたが、なかでも必ず出されたのが、ボラをご飯とともに炊き込んだ「ボラ雑炊」で、思い出の味だった。

犬飼さんは、下之一色の漁村文化の語り部として、20以上あった漁法の一つひとつを手作りの模型で再現したり、料理のイベントでボラ雑炊の作り方を教えたりし、かつての様子を伝えてきた。今も朝起きると、西のほうの鈴鹿や伊吹の山にかかる雲を見て気象を判断する。「その時の風の都合で漁場が違う」と話す。漁師のときからの習慣が、今も心身に刻まれている。「一色に行けばなんとかなる」くらいに繁栄し、人が集まった。「漁協の規模が日本で三番目だった」「あれだけの漁協があったところはない」と言うくらい、豊かな海とその恵みを受けてにぎわった漁師町が、名古屋にもあった。

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