ENVIRONMENTALCOLUMN 環境情報を知りたい方/環境コラム
なごや環境大学の20年、その原点と役割は? 千頭聡特任教授に聞く
なごや環境大学は今年3月で開学20周年を迎えた。ごみ非常事態宣言から愛知万博、そしてSDGsへ――。環境の課題やキーワードが移り変わる中で、なごや環境大学は何を目指し、どんな役割を果たしてきたのか。開学前の基本構想づくりから関わり、現在も実行委員を務め続ける日本福祉大学の千頭(ちかみ)聡特任教授に、20年前の原点と次の5年、10年に向けた展望を聞いた。
――なごや環境大学の開学までに、どんな流れがあったのですか。
藤前干潟の埋め立て断念によって「名古屋のごみがあふれてしまう」と市がごみ非常事態宣言を出したのは1999年ですが、ちょうどそのころ「なごや環境塾」という環境教育の場ができ、私も関わっていました。
年間を通じて10回ぐらい、いろんな方が環境の話をしたり、ワークショップをしたりする。ただし、受講者が一方的に講義を受ける形ではなく、話を聞いた側が次は伝える側になる。その年の受講生がグループを作って、次の年は主体的に行動をするといったようなことが2007年ぐらいまで続きました。一方通行の「お勉強」ではなく、人を育てたい、行動する人を増やしたい。私はこの仕組みが、名古屋の環境教育の出発点だったと思っています。
――なごや環境大学開学の時期と少し重なりますが、なごや環境塾の仕組みをさらに発展させたのがなごや環境大学だったと言えそうですね。
実際には、なごや環境大学「基本構想」策定検討委員会という場が2003年に設けられ、私を含めて有識者が2年間をかけて中身の議論をしました。ごみ非常事態宣言のあと、名古屋市民がそれぞれに環境に関していろいろな意見を持っていた時期です。
藤前干潟を巡っては、市の埋め立て計画に対する反対運動があって干潟の保全が決まりましたが、単に賛成・反対というだけではなく、皆さんそれぞれにいろいろな思いがあるだろうから、それを「持ち寄る場」を作ろうというのが基本的な考え方でした。
場といっても1カ所に集まることではなく、「キャンパスはなごや全体」「まち中がキャンパス」だというイメージ。これに「脱一方通行の共育ネットワーク」「環境首都をめざす人と人の輪づくり」を加えた3つが、なごや環境大学の狙いとして打ち出されました。
――ただ、「大学」といっても本当の大学ではない、市民主体だけれど行政がお金を出す。そのあたりの運営体制の議論はどんな感じでしたか?
その議論は昔も今も続いていまして、私にとってはある意味ずっと“戦い”です(笑)。
お金の話はもちろん、かなり議論をしました。結果的に初年度から市の負担金100%で運営はスタートしましたが、正直それだと環境大学というのは市の附属機関のようなものだと思われてしまいますよね。
でも、市のお金といってもともとは市民の税金です。市が稼いだお金ではなく、市民が出し合ったお金です。
日本の自治体というのは首長をトップとした行政が予算案を作り、それを議会が承認するという二元代表制ですが、そこに本来はお金を出した市民や企業を含めた納税者の意思、例えば「環境のためにこういうふうにお金を使ってほしい」という意思が反映されなければなりません。しかし、実際は4年に1回の選挙のとき、そんな細かいことまで市民が意思表示をして投票しているわけではありません。つまり、ほとんどのお金の使いみちは市長や市議会にお任せなんです。
なごや環境大学における市の負担金というのは、少なくとも環境について、納税者が使いみちについて関わることのできるお金。実際は、なごや環境大学実行委員会の裁量に任されていますから、実行委員会には私のような大学の人間も、企業の人も、NPOの人も入っています。最初は女性会や保健委員さんも入っていました。そういういろんな立場の人が、名古屋の環境について、お金の使いみちを直接決める仕組みになっています。もちろん、市の人もちゃんと入っていますから、市役所も含めてみんなで使いみちを考えるというのがポイントです。
しかし、この原点が忘れられてしまうことがあり、20年前の議論に戻りながら戦うことがよくあるんです(笑)。
――それはご苦労がおありですね(笑)。民間のお金を使うことは考えられていたのですか?
実は、開学から数年間は、市の負担金以外のお金を我々民間がかなり“稼いで”いました。例えば、愛知万博の余剰金を活用した「モリコロ基金」に申請をして採択されたり、国の研究開発の助成金などを取ったりもしました。そこでは本当の「大学」と間違われて、最終段階になって任意団体の申請ではダメと言われて便宜的に別の形をとった助成金もあれば、任意団体でもいいとして採択された助成金もありました。
いずれにしても、頑張って市以外からお金を取ってきた時期があったのは事実。しかし、そうしたやり方は事務局の負担が大きく、やはり市の負担金100%に戻ってしまったのも事実です。
――こうした仕組みは先例や、環境分野以外でのモデルがあったのですか? 20年続いた秘訣のようなものはありますか?
なごや環境大学の仕組みは当時、日本で唯一のものでした。開学から数年間は全国から数十件の視察を受け入れたほど。その後、同じような市民大学が各地にできましたが、今でも規模的には日本で最大だと思っています。
うまくいった要因としては、教室の中で決められたコースに参加するだけではなく、自分たちの思いを実現するとか、問題意識を伝えるとか、課題を解決する場として活用していただけた面があったからでしょう。
ある時期には、愛知県内の大学の学長が集まる「愛知学長懇話会」を通して、なごや環境大学の講座を各大学で正式に単位認定してもらったことがあります。社会人と学生が同じ場で学んで、学生はそれを正式な単位として取れる。大学にとっては、その講座を通して企業とつながったり、環境教育のフィールドを持てたりする。これは全国的にも極めて画期的なことだったと思います。
企業の方々の参加は今では珍しくありませんが、なごや環境大学の講座の中で企業が持っているノウハウを話していただくことなどは、従来の枠を超えた活動になります。やがて「うちの企業では今こんなことを考えているんだけれど、環境大学さん手伝ってくれない?」といったお声がけをいただくようになり、我々も企業の現場を見に行ったり、現場で活動したりできて、とても刺激になっています。
――今でこそSDGsという考え方が出てきて、それぞれの行動が持続可能な社会の実現にどのように位置付けられるかが整理されています。環境大学のテーマは、当初どのように整理されていたのですか?
まずは「環境首都なごや」を作ろうというテーマがありました。環境首都と言っても、明文化された定義があったわけではないですから、まさに皆さんが自分の立場から見た環境首都って何だろうと思い描き、活動してきたのだと思います。それは出発点であるごみ減量化や資源循環の活動もあるし、自然に関わることもあるし、人を育てることも意識をしてきました。
それぞれの活動はバラバラといえばバラバラですが、名古屋を環境首都にするという大きな目標に向かって、さまざまな形でアプローチをしたというイメージです。
――その後、干潟やごみ問題が落ち着いて、名古屋の環境運動は盛り下がりの時期もあったかと思います。環境はコアな人たちだけでやるイメージも付いてしまったのではないでしょうか。
まさにそうですね。出発点の藤前干潟に関しては、ごみ処分場にしないという決定が下されたことで、すべてがうまくいき、終わってしまったと思われた面があります。
でも、実際はそのまま放っておいたらいいわけでは決してなく、課題は山ほど残されています。マイクロプラスチックの問題など、干潟を取り巻く状況は日々とても悪くなっていて、それを一人ひとりが努力して解決していかないと守れないのですが、そこがなかなかうまく伝えられていません。
今年は名古屋市がラムサール条約の湿地自治体に認証され、市もアピールをしています。しかし、当市の環境計画(第4次名古屋市環境基本計画)には干潟・湿地の保全については文言がなく、ただ「藤前干潟ふれあい事業をやります」としか書いていません。これは行政内部でも埋め立てを止めて終わったこと、干潟保全はできている状態だと思ってしまっていることの表れではないではないかと、私は市当局にさんざん言いました。
そうすると市に嫌われてしまうのですが、認証のアピールやイベントといった形だけではなく、大事な干潟を守るために日々努力するべきことがあるのではないかと、私は文句を言いながら見守っていきたいと思っています。
――最後に、今後のなごや環境大学に求めること、望むことは何でしょうか。
抽象的な言い方ですが、多様性、多様さを力にできるかどうかがポイントだと思います。
多様さはややもするとバラバラで、力は発揮できないと思われがちですが、私は多様だからこそ力が発揮できると思っています。
それは20年前のなごや環境大学の出発点のとき、いろんな人たちのいろんな思いを持ち寄る場を作ろうと考えたことと同じ。いろんな問題意識を持ち寄ることは見方も違うわけですが、それが結果的に名古屋を変えていく力になるという思いでなごや環境大学は動いてきました。これからもその多様さを力に変えるというのが一番大事かと思います。口で言うほど簡単ではないですが(笑)。
※千頭特任教授も登壇した「なごや環境大学20周年&ラムサール条約湿地都市認証記念シンポジウム―なごやには湿地がある―」は、9月23日(火・祝)、鯱城ホールで開かれました。